第2話
長崎・夏
出島から奇跡の産業革命遺産
明治日本の近代化を「世界への窓」として支えた長崎
2日目の旅スケジュール
- 出島
- 三菱重工長崎造船所(海から)
- 軍艦島
- 眼鏡橋
「長崎・夏」。2日目は、鎖国時代、日本唯一の“外国への窓”として世界の文化・文明を伝えた「出島」から、明治の産業革命の中心地となった近代・長崎への軌跡をたどる旅だ。
明治維新以降、わずか20数年で電話、鉄道などのインフラを整備し、綿糸、絹糸の大量生産、大量輸出に成功するなど、急速な近代化を遂げた日本。
その成功を支えたのが、2015年に世界遺産となった「明治日本の産業革命遺産 」だ。
世界遺産として登録された建造物や遺跡は、8県、11市、23カ所に及ぶが、その中心となるのは、やはり長崎である。なぜ、長崎が産業革命の中心地となったのか。
その答えを見つけようと最初に訪れたのは、江戸時代、日本で唯一の貿易の窓口として、日本に西洋の文明・文化を伝えた人工の町「出島」である。
「出嶋阿蘭陀屋舗景図」(長崎歴史文化博物館所蔵)
産業革命の礎となった
「出島」の文化
「出島」が完成したのは1636年(寛永13年)。三代将軍・徳川家光が、日本人の海外への渡航を全面的に禁止した年である。
「出島」は本来、貿易を目的としてやってくるポルトガル人を管理するために造られたものだった。しかし、ポルトガルが熱心なカトリック信仰国であったため、キリスト教の布教を恐れた幕府は、1639年にポルトガル人を追放。
同じキリスト教を進行する国でも、布教にこだわり持たなかったプロテスタントの国、オランダを貿易相手として選び、1641年に平戸のオランダ商館を「出島」へと移した。これが「出島阿蘭陀商館」の始まりであり、日本の鎖国の始まりである。
1859年、幕府の開国により「出島」はオランダ商館としての役割を終え領事館となり、1904年には港湾改良工事によって、港に突き出たその扇型の姿を消した。
現在の「出島」は、1996年から始められた本格的な復元整備事業により整備されたもので、カピタン部屋などの鎖国時代の建造物16棟が再建され、明治期に建てられた洋風建物と共に公開されている。
約15,000平方メートル、東京ドームの3分の1ほどの面積しかない小さな「出島」だが、長崎、そして日本への貢献は計り知れない。
カバン、ガラス、コック、ソーダ、ピストル……。オランダ語を由来に持つ言葉の多さからも、その影響力を想像する事ができる。
オランダが日本にもたらしたものの中で、日本の近代化において大きな役割を果たしたのは、「出島」の医師たちが伝えた科学である。
鎖国時代の200年の間に、「出島」にやってきた医師の数は、シーボルトをはじめとする約60人。そのわずか60人に直接、あるいは間接的に教えを乞うために、日本全国の各藩から訪れた留学生の数は2,000人とも言われる。
平賀源内、高野長英、渡辺崋山、岩崎弥太郎。長崎で学び、後の日本の文化・文明に大きく貢献した留学生は数多い。
鎖国の日本に最新の科学をもたらした西洋人が暮らし、それを学んだ日本人たちが訪れた街並みを、当時に思いをはせながら歩いてみてはいかがだろう。
ユネスコの世界遺産に登録された九州・山口地区の建造物、遺跡の正式名称は「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」である。
「出島」から始めた産業革命への道をたどる旅。次に訪れたのは、その造船業の草分け「三菱長崎造船所」と、日本の石炭産業の中心地として栄えた「軍艦島」だ。
長崎港から「軍艦島」へと向かう往路、出発して間もなく右手に見えるのが、「三菱長崎造船所」(三菱重工業長崎造船所)である。
1857年にオランダ人技師の指導により建設された日本初の艦船修理工場「徳川幕府直営・長崎鎔鉄所」をルーツに持つこの造船所には、幕末、様式船舶の修理機械すら持たなかった日本が、わずか50年で大型船の建造技術を習得し、欧米列強とならぶ造船大国となったことを象徴する4つの建造物、遺跡が世界遺産として登録されている。
「軍艦島」へのクルーズ途上で見る事ができるのは、1909年に竣工した「ジャイアント・カンチレバークレーン」。大変に貴重な“稼働する産業革命遺産”の一つだ。
英国アップルビー社製で、高さ約62m、アーム部分の長さ約75m、この巨大なクレーンは150トンの吊り上げ能力を持ち、機械工場で作られたタービンや、船舶用プロペラといった製品や機材を吊り上げ、船に積み込む役目を、完成から100年以上がたった現在も担っている。
船に乗ること約40分。「軍艦島」(端島)が見えてきた。
1810年に石炭が発見され、三菱が所有者となったのが1890年。
以降「軍艦島」は良質の石炭を採掘する、炭鉱の町として栄えることとなる。
写真提供・長崎県観光連盟
この小さな島は、最盛期の1960年には約5,300人もの人々が住み、人口密度は東京23区の9倍、世界一の過密居住地となる。
1916年に日本初の鉄筋コンクリート造の7階建て集合住宅である30号棟が建築されて以来、市場、病院、映画館などの娯楽施設、小中学校も建てられ、島はまるで大都会のようだったという。
1941年には41万1100トンの最高出炭を記録した「軍艦島」だが、第ニ次世界大戦後の中東油田開発などの影響を受け、少しずつ衰退。1974年に廃坑となり、すべての島民が島を去った。
無人島になった端島は2001年、それまでの所有者であった三菱マテリアル株式会社(元の三菱鉱業)から高島町へ譲渡され、現在は長崎市の所有となっている。
良質のエネルギー源「石炭」を出炭することで、80年以上にわたり日本の近代産業革命を支えてきた「軍艦島」。今、役割を終えたその姿は、歴史の重さと儚さ、果たしてどちらを物語っているのだろうか。
2日目の最後に訪れたのは「眼鏡橋」。東京の「日本橋」、山口の「錦帯橋」とならんで「三大名橋」のひとつに数えられる観光名所だ。
1634年、「出島」が完成する2年前に掛けられたという由緒ある橋のたもとでひと休み。
長崎の旅、2日目はここで、終えることにしよう。
「眼鏡橋」でひと休み
「眼鏡橋」がかかる中島川周辺には、かすてらの「匠寛堂」などの老舗やおしゃれな店が軒を連ねる。観光の合間に訪れてはいかがだろう
第3話「ゴルフリゾートの原点。雲仙ゴルフ場と、観光都市・長崎」につづく